月の涙を鍵として




セイがバイトを終えビルを出ると、吹きつける北風と共にシルバーメタリックの
ロードスターが目の前に滑り込んで止まった。

「沖田先輩?」

一瞬身を引いたセイだったが、助手席側の窓を開けて手をひらひらと振っている
男の顔を確認するとニコリと笑った。

「待っていたんですよ? この後、時間ありますか?」

運転席から乗り出して助手席に手をついた総司が柔らかく誘いかける。

「もう。前もってメールでもしてくれればいいのに・・・」

「え? 都合が悪かったですか?」

途端にしゅんとする様子にセイの頬が緩んでいく。

「いいえ。時間ならありますよ」

ぱぁっと表情を明るくした総司に、セイは耐え切れずクスリと笑った。





「はぁ、美味しかったです、ご馳走様でした」

食事を一緒に、という事で少し落ち着いた創作料理の店で夕飯を取り、
軽くベイエリアを流している。

突然に総司がセイを誘うのはいつもの事。
友人に引き摺られるように参加した大学のサークルで知り合った2年先輩のこの男は、
たわいもない理由をつけては食事にドライブにと誘ってくる。
そこに友情以上の感情が絡むようならセイとて毎回つき合いはしないけれど、
総司は他の友人と変わらぬ態度でセイに接してくる。

そのつかず離れずの関係は総司が大学を卒業した今も、ごく自然に仲の良い
先輩後輩として続いていた。



前の車のテールライトがカーブのせいで消えた。
周囲を覆う蒼い帳が濃さを増したようでどこか幻想的な空気を醸し出す。

ぼんやりとしていたセイがふと気づくと、車はいつもセイを送るルートをはずれ、
埠頭の方向へと向かっている。
総司がまだ大学にいた頃から、話し足りない時によく寄っていた場所だ。
ちらりとハンドルを握る横顔に視線を向ければ、珍しく何か考え込むように
眉間の皺が刻まれている。

(会社で何かあったのかな?)

滅多に愚痴を言うような男では無いが、それでも以前は卒論の事や
定期試験の事でセイを相手に落ち込んだ様子を見せる事があった。
普段は飄々としていて、時折酷く酷薄ともいえるシニカルな笑みを浮かべる
この男が愚痴という形で自分の内面を見せるのは、セイにだけだという事を
言われる本人だけが知らずにいる。



総司は立ち並ぶ倉庫の影に車を止めた。
湾の対岸では明日に控えたクリスマスイブに向けて横浜のビル群が
クリスマス仕様のライトアップをしていて、いつもより華やかな灯りが
街の賑わいを伝えてくるようだ。


「ねぇ、神谷さん・・・」

エンジンを切るとそれまで車内を漂っていた音楽も止まる。
静寂の中に囁くような総司の声が落ちた。

「貴女、また男を変えたんですか?」

「はぁ? な、何ですか、突然」

知り合ってから3年近くなるが、総司がセイの恋愛事に触れた事は今まで
一度として無かった。
セイに恋人がいようといまいと、あくまでも先輩後輩としての距離を
崩そうとしなかったのだから。

「沖田先輩には関係無いじゃないですか。あ、それとも好きな人でもできて
 私に相談に乗って欲しいとか?」

「貴女に相談したってまともなアドバイスなんて受けられないでしょう?」

苦笑とも嘲笑とも言える笑みを浮かべて、総司がセイを見つめた。

「し、失礼ですねっ!!」

セイが憤然と言い返しても総司は笑みを崩さない。

「だって貴女、まともにお付き合いしていないでしょう? いつもいつも
 恋人と呼ばれる人がいても。有名ですからね、『来るもの拒まずの神谷』って。
 しかもキスひとつ許さずに、じっと相手を観察してるんですってね。
 結局相手が焦れて別れるか、無理に深い関係を迫ろうとする相手には
 貴女から別れを切り出す。長く続いた人でも1ヶ月でしたっけ?
 最もその人と別れて3日後にはもう新しい恋人がいたようですが・・・」

「・・・詳しいですね」

小さく溜息を吐きながらセイが答えた。

「だって貴女は目立ちますからね。聞く気が無くても耳に入ってくるんです」

本当は違う。
セイの事だったらどんな些細な事でも全て耳に入れようとしていた。
誰にも、セイ本人にも悟られないようにしながら。


「別にいい加減に付き合ってたわけじゃありませんよ。ただ相手がどんな人
 なのかは近づいてみなければ判らないじゃないですか。
 何も判らないままでキスなんてしたくないです」

周囲がセイを真面目なのかいい加減なのかの判断をつけられないのは、
こういう所だと本人は理解しているのだろうか。
週代わりのように恋人が変わっていようとも、悪女や遊び人というレッテルを
貼られる事が無いのは、そのせいなのだろう。
むしろ二十歳を越えてまでキスひとつの経験も無いという事の方が、
別の意味で特異だと周囲は呆れ顔でもある。

「でも・・・貴女は理想の男を捜しているんじゃないか、と皆言ってましたよ。
 いつだったかサークルの飲み会で好きなタイプの男性の話になった時に
 『少し意地悪で照れ屋で、優しいけれど不器用な意地っ張りの男』って
 言ってたでしょう? 誰かを想定しての言葉だろうって後で騒ぎになったんですよ。
 あの日、貴女は早く帰ったから知らないでしょうけれど」

総司の苦笑が濃くなった。
知っているから。
そんな男を自分だけは知っているのだから・・・。
いつも憎まれ口ばかり叩いていた、不器用で意地っ張りだけれど誰よりも優しい
その男の事を忘れられるはずもない。

セイの口からその言葉が零れた時、全身の血が逆流し沸騰するように感じた。
日頃あまり好まない酒を、その日は潰れるまで飲んだくらいだ。




ふいとセイから視線を外してじっと対岸の灯りを総司は見つめる。
いつもと違う総司の様子にセイが不安げな視線を向けながら、ふるりと肩を震わせた。
エンジンの止まった車の中はクリスマス時期の冷え込みが窓ガラスを伝わり
セイの体を冷やしてゆく。


「このあいだ・・・」

ポツリと総司が口を開いた。
セイも前を向き、湾の向こうの灯りを眺めた。
小さな船が航行しているのか、ぽつんと白と赤の光が目の前を移動してゆく。
時折波に船体を乗り上げて、ふわりふわりと揺れる灯りが生き物のようだ。

「見たんですよ・・・。土方さんと貴女を・・・」

セイの肩がピクリと揺れた。
けれどそちらに意識を向ける事も無く、総司は言葉を続けてゆく。

「駅で・・・驚いた顔の貴女と、駆け寄って貴女を抱き締める土方さん。
 貴女、思い出したんでしょう?」

ゆっくりと総司がセイに顔を向ける。

「神谷、清三郎。富永、セイ。ねぇ・・・思い出したんですよね?」

総司の視線に捕われたようにセイは身動きが出来ない。

「副長と・・・そう呼んでましたものね。まさか土方さんと会って、
 貴女の記憶が甦るなんて思ってもいませんでしたよ」

くっ、と唇の端を吊り上げ何かを嘲笑するような笑みを浮かべる。
清三郎の知っていた沖田総司には無かった笑みだ。
けれど今の世で出会ってからは、時折ひどく冷たい眼をして浮かべていた。


「・・・・・・思い出して、いたん・・・ですか?」

セイが必死に言葉を唇から押し出した。

「ええ。もう随分と前に。貴女と再会するよりも、ずっと以前に」

いや、思い出していたという言葉は正しく無い。
恐らく自分は生まれた時から幕末の記憶を持っていたのだろう。
けれど幼い頃は夢の中の出来事のように、あやふやでしかなった。
それが鮮明になったのは親が見ていたテレビで浅葱の隊服を眼にした時だ。
全ての記憶が甦り繋がり、当時の自分を翻弄した。
そして前世と今世が入り混じる記憶の惑乱の末、残った物は唯一つだった。

今の世に生を受けた事の意味。
記憶が残っている事の意味。

考えるまでもなく、この自分の魂に刻み込まれた後悔を昇華させる事。
自分の我侭だけで振り回し、最後まで傷つけ泣かせ続けた娘に許しを乞い、
今度こそ正面から向き合う事。
その日から総司はセイを探し始めたのだ。

けれど天の慈悲で再会したセイには、総司に関する記憶が残っていなかった。



「再会してから、ずっと貴女を見ていましたよ。
 私の事を思い出してくれなくてもいつか私が傍にいる事、
 貴女を見つめている事に気づいてくれるんじゃないかと思って」

ハンドルを避けて片足を持ち上げると膝を抱え込むようにして、
そこに額を押し付ける。

「私を思い出しもしない貴女が、いつも誰かを探しているように
 恋人を変えているのを見て、私の罪を突きつけられているような
 気がしてました。 今でも耳に残っているんです。 あの木立に囲まれた
 小さな病間で貴女を残して逝こうとする私に貴女が叫んだ言葉が・・・」


『置いていかないでくださいっ! 沖田先生っ!!』

前世の記憶はそこで途切れている。
病んだ総司の前では最後まで涙を見せようとしなかった意地っ張りの娘が、
大きな瞳から零し続けていたのだろう温かな雫が、握られた自分の手の甲に
優しい振動を与え続けていた。

愛しくて愛しくて手放せなかった娘だ。
だからこそ自分は伝えるべきだったのだと意識も朧になった時に気づいた。


貴女が愛しいと。
だからこそ、自分の愛した貴女でいて欲しい。
自分が逝った後も、空に向かって真っ直ぐに伸びる若竹のように、陽射しの中
前を向いて生きていって欲しい。
そしていつの日か、胸を張って私の元に来なさい。
待っているから、必ず貴女の事だけを待っているから・・・と。


置いて逝く自分がするべき事は想いを殺し押し隠す事ではなく、全てを曝した上で
ひとり遺される愛しい人の胸の灯火となる事だったのだ。
けれど気づいた時にはもう言葉を紡ぐ力も失われていた。
最後に残った精一杯の力で、小さく枕元の文箱を指差した。

それは植木屋の離れに移り住んだ時に、自分が死した時には棺に入れて欲しいと
セイに頼んだものだった。
不吉な事を言うなと叱られたけれど、それでもどうしてもと言い募り了承させた。
ただし絶対に中を見ないように、と幾度も言い聞かせて。

開けていいのかと問うセイに微かに頷く事で答えると、蓋を開けたセイが
息を呑む気配がした。
細長い文箱の中には一振りの懐剣と小さな簪が入っているだけだった。
どちらも京にいた時分に総司が手に入れたものだ。
まだ元気だった頃、頑なに武士で在り続けようとするセイに「これを身につけて
私の妻になりなさい」と精一杯の告白をするつもりで。

身を守る懐剣と身を飾る簪。
もうひとつ桜色の着物を頼んでいて、それが出来上がり次第想いを告げる
つもりだったけれど・・・その前に病だと知ってしまった。
結局取りに行く事の無かったあの着物は、今頃誰かが纏っているのだろうか。
それを身につけたセイを見たかったなと、胸の中で切なく笑う。

徐々に薄れる意識の中で、自分の手を握り締めて名を呼び続けるセイの声だけが
響いていた。
今更あんなものを渡されても困るだけかもしれないけれど、
どうか貴女は幸せになって欲しい。
私への気持ちには鍵をかけて、心の底に沈めてくれればいい・・・。





「ずっと記憶があったのに・・・黙って見ていたんですか? 私を・・・」

「ええ。貴女が私を覚えていなかった事が、何より明確な私への罰だと思ったので・・・」

自分が逝ってからのセイの事は当然何一つ判らない。
土方や斎藤のように表に名の出る立場では無かったのだから。
けれど確かな後ろ盾も無い女子の身で、楽な暮らしが出来たとは思えない。
きっと自分を恨んで憎んで忘れたいとさえ思っていたのだろう。
だから覚えていないのだと納得した。
何一つ愛しい娘に遺す事の出来なかった愚かな武士を嘲笑しながら。


車のシートの上で膝を抱える姿は、まるで幼い子供のようで。
何でもない顔をしながら、いつも強がっていたのかと始めてセイは知った。

「沖田先生!」

懐かしい呼び声に、総司がはっと顔を上げた。

ふわり。

頬に触れた柔らかな感触に総司の体が固まった。
暫くそのまま動けずにいると、セイの小さな笑い声が聞こえてきた。
恐る恐るそちらに顔を向けると至近距離でセイが微笑んでいる。

「か、神谷さん?」

自分の頬に触れたのだろう桜色のセイの唇へ視線を留めたままで、
掠れる総司の声にセイが困ったように首を傾げた。

「私の記憶が戻らなかったのは、沖田先生のせいじゃありません」



総司を送ったセイはその後、箱館まで土方を追っていったのだ。
けれどようやく追いついた土方は総司を失って抜け殻のようになったセイが
参戦する事を許そうとしなかった。
それでも密かに箱館政府の病院に看護師として潜り込んでいた所を見つかり、
溜息と共に従軍を認められた。

ある雪解けも近い頃の深夜、五稜郭の庭でぼんやりと月を見上げていたセイの元に
土方が現れた。

「そんなに総司が恋しいか」

土方の問いに月から視線を離さずにセイが答えた。

「忘れられないのです」

「ならば俺がアイツの元に逝く時に、その想いを一緒に持っていってやる。
 だから全て忘れて穏やかに暮らせ」

弾かれたように振り返ったセイに沁みるような笑みを残して土方は背を向けた。
雪が溶けたら激しい戦が再開される事は誰もが感じていた事だ。
土方や一部の者はその戦に勝ち目が無い事、同時に自分の命が散る事を
すでに覚悟していた。
もちろんセイもその一人だったのだが、土方の言葉はお前は生き残れと告げていた。

結果的には土方が命を落とす前日に弁天台場の仲間の元に薬を届けに行ったセイは、
突然の新政府軍からの猛攻のせいで五稜郭に戻れぬまま、翌日の昼前に
沖の軍船からの砲撃に吹き飛ばされて北の海にその身を沈める事となった。

最後の記憶は冷たく蒼い水の帳。



「きっと副長は律儀に私の記憶を持って逝ったんです。
 だから先生のせいなんかじゃありません。
 私は一度として先生の事を忘れたいなどと思った事は無かったんですから」

静かなセイの言葉に総司は深い溜息を吐いた。
自分を恨み憎んでいなかったという事には心底安堵したが、それでもセイの
最期を聞けば胸がひどく痛む。
本当だったら優しく素直なあの娘は、誰よりも幸せになれただろうに。

自分が巻き込み修羅の道を辿らせてしまったという罪悪感と共に、
心を苛む感情の元をセイに問わずにはいられなかった。

「でも貴女を修羅の道に引き込んでおいて私は途中で貴女をひとりにしたんです。
 結局貴女を最後まで守ったのは土方さんだった。だから貴女は土方さんを
 ずっと探し続けていたんじゃないんですか?」

「私が? 副長を? どうしてそう思うんですか?」

「だって・・・『少し意地悪で照れ屋で、優しいけれど不器用な意地っ張りの男』
 って言ったら土方さんしかいないじゃないですか・・・」

どこか苦しそうに総司が呟く。
途端に弾けるようにセイが笑い出した。

「あっははは、それは違います。確かに副長もそんな感じですけれど、
 私が探していたのは違います」

目元に滲んだ涙を細い指先で拭うと、笑みを残したままで総司の耳元に
セイの唇が近づいた。

「『好きだ』って簡単な言葉をず〜っと言えずに、そのくせ惚れた女へ
 贈れなかった物を後生大事に死出の棺に抱え込んで逝こうとするような
 『不器用で照れ屋な意地っ張り』を。一番欲しかった言葉をくれなかったクセに、
 最後にそんな形で想いを伝える『優しい意地悪』さんを。
 ずっとずっと無意識の内に探していたんですよ」

その囁きは甘く総司の胸に響いた。

総司は恐る恐るセイの体に手を伸ばした。
触れたその身はすっかり冷え切っていて、自分の物思いばかりに心を向けていた
事に気づき慌ててエンジンをかけてエアコンを稼動させる。

「す、すみません。こんなに冷えていたなんて・・・」

「大丈夫です。こうしていたら寒くなんてないです」

総司の腕の中でセイが頬を擦りつけてくる。
エンジンと共にかかったラジオからクリスマスソングが流れていた。
毎年飽きるほどに聞き慣れた音楽が、どうしてか今日は酷く優しく響く。

その合間に時報が鳴り、日付が変わった事をふたりに知らせる。

「クリスマスイブになっちゃいましたね」

「はい」

「イブは土方さんと約束してるんですか?」

セイを抱き締める腕に力がこもった。
駅で見た抱き合う二人の姿が眼に焼きついている。
自分も土方が昔のままに現世にいるなどとは知らなかったが、セイとて
せっかく出会った懐かしい男とあれきりにする事など無いだろう。
そして恐らく土方も。

「約束なんてしていませんよ。記憶が戻ったんです。もう他の人なんて興味ありません」

きっぱりとしたセイの返答に総司は目を瞬いた。

「え? だって土方さんは・・・」

「副長の連絡先は教えてもらいましたけれど、それだけです。もしも沖田先輩が
 何かで記憶を戻した時に会いたいかもしれないと思って聞いただけですもの。
 それに副長はたまたま日本に帰国していただけで、本来は海外勤務だそうですから
 今頃は飛行機の中じゃないですかね・・・」

「そ、そうなんですか」

自分が全く見当違いの心配をしていたらしい事をようやく悟って総司が笑った。
さっきまでの暗い気配が霧散したその笑顔にようやくセイも胸を撫で下ろした。



「ねぇ、神谷さん」

「はい?」

セイから少しだけ身を離した総司が真摯な瞳でセイを見つめた。

「昔の事も全てひっくるめて、これから私と一緒にいてくれますか?」

過去に告げる事の出来なかった言葉を、今度こそ伝えたい。

「昔も、今も、貴女が、好きです」

一言一言噛み締めるように言葉を形作る。
心の、想いの全てをそこに籠めて。


「はい。私も・・・昔も今も、好きです」

セイの滑らかな頬を涙が伝った。
昔は言うまでもなく、今も総司の事が好きだった。
けれど今の心地良い関係を崩したくなかったから、絶対に恋愛感情を持たないと
無意識に自分に枷をつけていたのだ。
過去を思い出した時に、それをはっきり認識した。
ずっとずっと好きだった。

泣きじゃくりながら腕の中で必死に伝えてくる少女の言葉を唇を重ねて塞いだ。
涙に濡れたその唇はとても甘い。
幾度も優しく重ねて、徐々に深く覆いかぶさるとセイの体が震えた。
宥めるようにその細い背を撫でている内に、セイの体から力が抜ける。
ようやく唇を離した総司が顔を覗き込むと、上気した頬と潤んだ瞳が
心臓を高鳴らせる。

「そんな顔、他の男には見せないでくださいね」

思わず上ずった声で懐の中にその危険物を抱え込みながら、
ダッシュボードに手を伸ばす。
カサリと響いた音にセイがそちらを向くと総司の手の上に小さな箱が載っていた。

「渡せるなんて思わなかったけれど、いつか渡したいと願っていたんです。
 クリスマスプレゼントになりましたね」

少し照れたようで、けれどどこか哀しそうに差し出されたそれを受け取り
セイが中を開いた。

薄暗い車内でもはっきりと判る、銀に光るバレッタが箱の中に収まっている。
震える指先で取り出したそれを両手で抱え込んでセイが声を上げて泣き出した。



あの時、総司がセイにと京で手に入れた物。
混乱の敗走の中でも手放す事無く、いまわの際まで大切に持っていた簪と
全く同じ意匠。

心という文字を銀で切り出した上に、小さな四角い閂が乗っている。

『心に錠』

戯言のように花街や町家で遣り取りされたものではあるが、この不器用な男にとっては
「自分以外に心を移さないで欲しい」という切実な祈りがあったのだろう。
あの頃の総司と今の総司、ふたりの想いに涙が止まらない。


泣きじゃくるセイを抱きしめながら総司は思う。

今時こんなものはどこを探しても売っていない。
けれどどうしてももう一度、今度は確かに自分の手で渡したかったから。
だから自分で作るしかなかった。
大学の授業の傍ら銀細工の彫金師の元へ通って基礎から学んだ。
いつの間にか周囲にそれを知られ、気づいた時にはアクセサリーデザインの
サークルを作る事になってしまった。
そこにセイが入ってきたのだから、きっとどこかで運命の輪が繋がっていたのだろう。

もっともさすがにこの時代に簪というのも不自然なので、バレッタという
形に変えはしたが・・・。
前世の沖田の想いと今の自分の想いを重ねた銀色の固まりが大切そうに
セイの手の中に握りこまれている。

ようやく在るべき場所に在るべき物が辿り着いた。


セイの髪に頬を埋めて総司は深い吐息を零した。





ずっとこのまま共にいたいけれど、そうもいかないだろうとセイを腕から離し
総司は車を走らせた。
対岸のホテルのイルミネーションが樅の木を象っている。
前世では神も仏も無いものかと繰り返し嘆いたけれど、現世ではこの異国の神の
生誕を祝う日に自分に奇跡が舞い降りた。
今まで特に意識をした事も無かったこの日だが、今年からは少し特別な日に
感じられるのかもしれない。

ちらりと隣のセイを盗み見れば、手の中の銀の塊を幾度も指先で撫でている。
総司の眼が笑みの形に細められた。


静かな住宅街を流星の如き銀の車が走る。
次の緩いカーブを右に曲がった突き当たりには信号がある。
左に行けばセイのアパート、右に折れれば総司のマンションへと続く道だ。

減速した車が滑るようにカーブに差し掛かり、ふと総司の左肩に重みがかかった。
セイが柔らかに凭れかかっている。
黙ったまま総司は唇の端に笑みを浮かべた。


カーブを抜けた車は、次の信号で右折のウィンカーを出した。